2024年6月 村上 正人
10回目のスタディーツアー
今回のスタディーツアーは私にとって10回目のカンボジア訪問でした。
私のかんぼれんとの出会いは2003年10月に開かれた「ボネット神父、イエズス会入会50年のお祝いの集い」でした。そこで初めてカンボジアスタディーツアーの話しを聞きました。
翌年の2月のツアーに参加するのは日程的に難しかったので代わりに翌年4月から社会人になる次男を先遣隊として送り出しました。
2月にツアーから帰国した息子からツアーの話しを聞くと、「日本では考えられないような厳しい生活実態を目の当たりにして、大変、有意義な経験だった、心に残った1週間だった」と話してくれました。
2005年初めてカンボジアツアーへ
この感想を聞いて、即、2005年のツアーに私たち夫婦で参加することを決めて参加したのが2005年2月、これが第一回目のカンボジアでした。
初めて降り立ったプノンペンは空港からホテルまでに車窓から見た街の様子は驚くことばかりでした。道路に信号はほとんどなく、クラクションを鳴らし続けて渋滞に割り込む車、乗用車の隙間に入り込む無数のバイク、そしてバイクには少なくとも3人乗車、5人を載せたバイクも多数ありました。
ガソリンスタンドはほとんど無くてガソリンは道端でペットボトルに詰めて販売、漏斗で給油していました。
そして翌朝、JLMMの浅野さんに案内してもらったゴミ捨て場で、再利用できるものを競って探す貧しい人々(写真)の生活を見て私の驚きはピークに達しました。
ゴミ捨て場に隣接するスラム街の一角で学校に行けない子供たちのために識字教室を開いている浅野さんの姿に心打たれました。
次に向かったのがクメールルージュ時代に高校の建物を監獄にしたトゥール・スレン強制収容所、僅か30年前にここで多くの非情な殺戮が繰り返されたその証拠がそこにありました。
かんぼれんが連帯する生活に困った人々の苦難の原点が具体的に理解できました。
三日後にかんぼれんの主要支援先であるシソポンに向かいました。
シソポンはタイへ向かう国道の要所ですが、当時は一つも交通信号がありませんでした。街の中心でも道路は舗装されておらず、乾期だったためか街中が砂埃で覆われていました。
翌日、シソポンの街から更に凸凹道を1時間かけて向かった国境に近い村々で見た多くの家は高床式の10畳くらいの家屋でしたが、電気も水道もガスも、なにも生活インフラがないので家から電線も水道管もアンテナも何も外に繋がりのない三匹の子豚の家のようでした。
水をためる大きな壺にため池から汲んできた濁った水が入っていました。
調理は七輪に枯れ枝で火おこし、多くの家はトイレもありません。
ツアーに参加したメンバーの一人が「終戦直後に戻ったみたい」と言われました。
当時のかんぼれんの支援は、地雷事故で負傷した貧しい人々を主な支援対象にして、家を提供したり、井戸を掘ったり、トイレを作ったり、あるいは過疎の村に雨水をためる溜め池を作ったり、と生活インフラを直接的に支援するものが多かったです。
カンボジアの変化、発展
以降、2008年、2011年、2014年、2017年と3年毎にツアーに参加しました。
そしてシソポンのJSCスタッフに毎回、前年度の支援先を案内してもらって、具体的なかんぼれんの支援の成果を説明してもらいました。
この間、3年おきにに訪問する度にカンボジアの社会が確実に発展していく姿を感じてきました。
例えば、空港のあるシェムリアップからシソポンへの道路は、最初の未舗装道路から、まず道路脇に電柱が立てられ、次に排水の土管が埋められ、そして舗装されと徐々に改善されていき、2017年に行った時には全線が舗装されてシェムリアップからシソポンへの所要時間は2時間半から1時間余りに短縮されました。
シソポンの街中にも信号機が設置され、バイクの乗車人数も1人か2人になりました。
幹線道路から別れて村々に行く道は今も未舗装で車の天井に頭がぶつかるような凸凹道が続きますが、村の、ほとんどの家に電線が繋がり、テレビのアンテナがあり、藁葺きの家はほとんど見かけなくなり板張りかトタン張りになりました(写真)。
2017年~2024年はコロナ禍を除き毎回ツアーへ参加
フルタイムの仕事を終えた2017年以降は、コロナ禍でツアーを中止した2021年、22年を除いて今年まで家内と毎年、カンボジアに行ってきました。それで今年が10回目となりました。毎年行くようになったころからの発展はめざましく、毎年訪れる度に前年との違いに驚きました。特にプノンペンは次々に高層ビルが建てられたり、立体交差が町中にできたり、大きなデジタルサイネージが道路脇に据えられたり、アジアの他の主要都市と変わらないような都会になっています(写真)。
シソポンも高層ビルはありませんがコンビニやブランド品の店が開店するなど、街並みが整理されて見違えるような中都市になりました(写真)。
村の方はまだまだ道路事情は良くなく上下水道は全く未整備ですが、移動する車の中から見かける家はひと部屋の小屋ではなく2LDKくらいの一軒家も見かけました。きっとタイへの出稼ぎなどで頑張って建てた家なのでしょう。
2024年2月のスタディツアー
今年のシソポン訪問ではJSCは昨年から大きく状況が変わっていました。
昨年の夏に5人いたスタッフのうち、責任者だったハムソックさん、主に開発事業を担当していたベテランのバーツさんの二人が退職して、管理担当のヴィチェカさんが責任者になり教育担当のキムさんと主に車椅子担当のリューさんと合わせて3人のスタッフ体制になっていました。
2月26日にシソポンに到着し、まずJSCのオフィスを訪ねました。
JSCのオフィスは昔から変わらず手入れされた庭に南国の花で埋まっていましたが、20年前からケージで飼っていた白い鳩やおしゃべりする九官鳥がいなくなっていました。動物愛護の観点から鳥をケージに押し込めることを止めにしたそうです。
JSC方針変更とシソポン事務所スタッフの本音
歓迎の挨拶のあと、オフィスでヴィチェカさんから2024年度の事業計画の説明を受けました。壁に掛かった白板に、縦軸に事業項目、横軸に担当者とカレンダーがあって、月ごとに予定する件数が書き込まれています。
このカレンダーに沿って丁寧に説明してくれましたが、昨年までとは違って主にバーツさんが担当していた「家」「牛銀行」「少額ローン」などの「開発事業」のスペースは数字の書きこみがなく白紙でした。
ヴィチェカさんの説明ではJSCとして今後は活動を「教育」と「車椅子」に集中し、家の新築や牛銀行などの「開発事業」は取りやめになったとのこと。
中止の一番の理由は、政府の方針でNPOは少額でも「ローンで利子を取ること」「牛を貸し出して子牛を戻してもらうこと」などの「事業」は禁止されたこと、それと二番目にJSCに対する国外からの支援金が近年、大きく減少していることがあるそうです。
ヴィチェカさんは「まだまだ村には多くの貧しい家庭があって、銀行からの借金は難しい中で、家の修理や、新しくニワトリの飼育に取り組む、或いは野菜栽培を始める等のために多くの人がJSCからの少額ローンを必要としているのに、今回の開発事業中止の方針決定は残念だ」と本音を語ってくれました)。
2023年の支援先を視察
シソポンに着いて二日目の2月27日と翌28日にヴィチェカさん、キムさんとリューさんで昨年の3人で支援先を案内してくれました。
28日にはプノンペンから夜行バスで駆けつけてくださったトウアン神父も一緒に回ってくれました。
ベテランのバートさんやハムソックさんがいなくなっても、若い3人のスタッフと村々との繋がりはしっかり続いていて例年通りに支援先の家族、あるいは学校の先生達と日頃からしっかりとコンタクトしていることが良く分りました。
JSCと村々とをつなぐ日頃のネットワークは健在でした。
二日間で案内してもらった支援先は13箇所、内訳は教育支援(奨学金、学用品、通学用自転車)が8箇所、車椅子支援が2箇所、それと(今回で最後になる)家の新築が1箇所、それに農業支援が2箇所でした。
教育支援
教育支援では実際に奨学金、学用品などを提供した生徒の家を訪ねたのですが、半分の家で親は不在で多くの支援先は、おじいさん、おばあさんが孫の生徒の世話をしていました。
多くの両親はタイに出稼ぎに出て行っているとのことでした。農地を持たない家庭はタイや都市の工場に出て行かないと稼ぐ手段が無いのでしょう。
2人の娘の孫5人と暮らしているおばあさんもいました(写真上)。
生後7ヶ月から孫娘を育てているというおばあさんもいました。
おじいさん、おばあさん達は、子どもからの仕送りは十分でないのでかんぼれんの支援で助かっていると思います。
村での就学率は改善していると思います。
最初にカンボジアに行った時には、子どもは 10歳になると働きに出るので小学校の高学年は生徒数が少ない、中学校への進学率は1割くらい、と聞きました。
20年前に比べると13歳とか14歳の中学生が奨学金や通学自転車の支援対象になっていて、支援は就学率改善に役立っている、と感じました。
開発支援:初めてだったこと
今回の支援先ツアーで初めてだったのは、野菜作りで収入を得ている家族にであったことです。
ここはJSCの支援で野菜作りを始めた家族で10メートル四方の畑に幾つもの畝があって空心菜や小松菜のような野菜が一面にできていました。奥さんが収穫していましたが野菜を売って一日3ドルくらいになるそうです。
今までも少額ローンを利用して野菜作りを始めたという家族を何回か訪問しましたが、これまでの野菜は自家用で「売って収入を得ている」というのは今回が初めてです。
米作りの農閑期に野菜作りで収入を得られたら出稼ぎに行かなくて済むでしょう。
JSCは数年前から米作りに加えて野菜作りのセミナーも実施してきました。それが実った姿をみてうれしく思いました。(今後、少額ローンは出来ないので鳥避けのネットとか農業機材の支給を考える、と言っていました。)
車椅子支援
27日には車椅子を支援した男性を訪ねました。
彼は夫婦で出稼ぎに行ったタイで怪我をして、単身、両親の家に戻って療養、回復したのでそろそろタイに出稼ぎ、というときに、近所の森で残っていた地雷を踏んでしまい、両足を膝から切断したそうです。それで奥さんの働いているタイに戻ることが出来なくなって非情に落ち込んでいる様子でした。
JSCのスタッフは定期的に彼を訪れ、車椅子を提供、次には「義足の装着を」と勧めて、励まし続けているとのこと。続けて最近、彼の友人が近所でやはり地雷事故にあったそうです。
今では除去がすすんで、ほとんど地雷事故は無くなったと聞いていましたが、それでもこのような不幸があるのですね。
JSCの車椅子事業は新規だけでなく、メンテナンスも支援しているので、今後も必要です。
2004年からのシソポンへの支援を振り返って
改めてかんぼれんが2004年から続けてきたJSCシソポンへの支援を振り返ってみたいと思います。
昨年の報告会でボネットさんがお話されましたが、かんぼれんはJSCのシソポンに20年間で40万ドル近い支援をしてきています。
その内訳を見ると校舎、奨学金、学用品、通学自転車などの「教育支援」が48%, 家、トイレ、溜め池、牛銀行、少額ローンなどの「開発支援」が40%, 「車椅子の提供、修理」が7%となっています。
0年間の推移をみると車椅子支援はずっと同じような割合ですが、以前、大きな割合をしめていた開発支援はこの5年間で減少し、近年は教育支援の割合が大きくなって来ました。
2008年のツアーの記録に当時のJSCシソポンの責任者だったソクエンさんの「JSC活動の対象を地雷の被害者支援から今後は教育に力を入れていきたい」とのコメントが残っていました。
ソクエンさんは「地雷事故が落着いてきたら、将来のカンボジアを担う子供たちの教育支援を重点的にやっていきたい」と私たちに何回も話していました。
今回、「NPOによる事業は禁止」との政府の新方針がきっかけになって、JSCは支援内容を「教育」と「車椅子」に集約する、と決めたそうですが、確かに子供たちへの将来投資である「教育」にもっと重点を当てていくタイミングなのかもしれません。
一回のツアーでの滞在は一週間という短期間なので深くは分りませんが、確かにカンボジアの生活は改善してきたと思います。かんぼれんの20年間の支援は、シソポン地区の貧しい人々の生活の改善に貢献できたと思います。
しかし、国全体の生活環境が改善してきた中で、却って豊かな人と貧しい人とのギャップは拡大したのではないでしょうか?そして都会と村の生活環境のギャップも拡大したと感じます。
だから、村の取り残されそうな人々に対してのJSCシソポンの活動はこれからも必要だと思います。
一方でクメールルージュの独裁、圧政によって貧困に陥った家族や、地雷で負傷した人々への連帯と支援を目指して20年前にスタートしたかんぼれんの活動は、地雷事故がほとんど無くなって、時間と共に、生活環境が改善されてきた今日、活動の見直し時期にあるのかな、と思います。
JSCが今後は「教育に支援の重点を移していく」との新活動方針を示したことも踏まえて、かんぼれんとしても今後、何をどうやって支援していくのかを再整理するタイミングなのかもしれません。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
2004年~2023年の支援報告や報告会動画もぜひご覧ください!
かんぼれんを支えてくださる皆様のおかげ20年間シソポンの人たち、子どもたちへの支援ができ、心より感謝申し上げます。
今後ともご支援のほどよろしくお願いいたします。今後ともご支援のほどよろしくお願い申し上げます。